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平成18年1月15日(日) 午前8時30分〜
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| 1月14日 登山下見 頂上にて 雪ではなく雨が激しく降り続く 明日は雨が上がることを祈る |
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| 雪はない | 足元は海 | さてがんばるか | 年々坂道がこたえる |
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| あたりはもやで白い | 通路には雪はない ホッ! | 滝状態 | 頂上はそこだ | |
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| 頂上は雪が | 山裏の足跡は一人だけ | 積雪も40cmは残っている | いざ進め | |
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| 道が・・・川だ! | ワクワクしてきた | 私が撮りました | 左側が長田神社 |
久松山
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| 久松山(きゅうしょうざん263m):鳥取市街の北部にあり、鳥取市を象徴する山。鳥取城跡など名所旧跡に囲まれている |
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| 鳥取城は戦国時代中期、天神山城の支城として久松山に築かれた。しかし戦いの激しくなった1573年、当時の山名家の当主・豊国は堅固な鳥取城を本拠地にすることを決め天神山城から出てそちらに移る。 それ以降山名家は毛利・尼子残党(織田)を渡り歩いていたが、1580年に織田軍が攻めてくるとすぐに降伏。この行動で堪忍袋の緒が切れた山名家臣は豊国を追い出し、毛利家につくことを決め、武将・吉川経家を城に迎え入れる。1581年、家臣400人と共に入城した経家であったがあまりの兵糧のなさに愕然とする。力攻めが難しいと判断した織田方の武将・羽柴秀吉によって米の大半を買い取られていたのだ。 そのため、籠城を開始した1ヶ月頃から食料が不足し、城兵は草の根まで食べて飢えををしのいでいたが、それがなくなると今度は死体を貪るようにまでなる。特に頭が美味で死人が出るとそれを奪い合ったという。それでも3ヶ月は持ちこたえた鳥取城であったが、あまりに悲惨な状況を見かねて経家は降伏を決意。その時、経家は自分の命と引き換えに城兵の命を助けることを願い出るが、秀吉は「経家は客将だから毛利に帰っていい」と勧める。だが彼は頑なにそれを拒否。結局は山名家重臣と共に自刀する。 その後、城兵は織田軍から食べ物を配給されるが、長い飢餓の為内臓が弱っていたところに食べ物を大量に口にしたので沢山の人が頓死したという。 戦後、宮部継潤が城に入るが、関ヶ原で西軍につき改易。その後を継いで池田家が入ると因幡・伯耆32万石の大名として廃藩置県まで治める。その間、城は何度か焼失と再建を繰り返している。明治12年、軍の方針で城を解体。 |
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| 池田光仲の時(1650年)樗谿に神社を創祀した際、長田神社を上町に遷座。 1720年石黒大火で焼失。1739年に再建。1924年現在地に移転した。 「とっとりの名木100選の樹」のケヤキ(にれ属)が境内にそびえている。 |