一つのシュラフ

 中学三年の長男が八月十一日の昼食後、自転車旅行に出発した。「太平洋を見てくる」と言って、とりあえず国道五十三号線を岡山方面に向かうのだという。
 これまで自転車では中学校の友だちの家ぐらいしか行ったことがないのに、なかなか言うものだな、と思った。ちょっと練習して来いと言うと、十三キロほど離れた実家まで一時間半で往復したり、五十キロ弱の倉吉の近くまで日帰りで行ってきたりした。部活や駅伝の練習の様子を見ていると、なかなか体力はありそうだったが、自転車旅行というのは予想できなかった。
 出発の前日、自転車の荷台にシュラフやシートを固定できるように準備していた。大学時代、同じシュラフを持って一か月ほどのオートバイの旅をしたり、三か月で一万キロ走ったりした私から見ると、あまりにもいいかげんな準備で、かってに手伝ってしまった。金は、十日から二週間の食費として、一万円渡すことにした。あとは自分のためていた金を使え、と言ったが、実家の母が聞きつけて餞別だと一万円持たせていた。
 夕方には津山に着いていた。約六時間で中国山地を登り切り、八十キロ進んだわけだ。夕食はトンカツ定食を食べたが、レモンにカビが生えていた、という電話が七時ごろ入った。その夜は橋の下で寝たらしい。シュラフが高級で暑いので体を出すと蚊に食われて困ったということだ。
 二日目、四国まで瀬戸大橋を通って行きたかったが、自動車専用道路のため通れない、と夕刻五時ごろ電話がかかってきた。じゃあしかたがないからフェリーで行け、と言うと、
金があまりないがフェリー代は高くないだろうかとしきりに心配していた。
 その後道に迷いながら四国に着き、丸亀あたりで泊まったようだ。例によって道路ばたで寝ようとしていて農家の方に声をかけられ、風呂をいただいた上に次の日の朝食まで食べさせてもらったらしい。そういえば家を出る時、ふくらはぎにチェーンのオイルがついて黒く汚れているのを、走ればどうせ汚れるからいい、と洗いもせず出て行ったから、この日やっと洗い落としたのだろう。
 三日目は四国の西の端まで走り、一日で百九十キロ進んだそうだ。スーパーマーケットのひさしを借りて眠り、日中は暑いので朝暗いうちから走ったらしい。
 四日目には九州の国東半島の南にフェリーで着き、大分県を南下して宮崎まであと百キロという所で泊まったらしい。夜七時すぎの電話で、漫画の「ああっ女神さま」を買ってもいいかと言ったと聞いた。のんきなものだ。
 五日目、我が家は海岸でキャンプ二晩目だった。電話を受けるためわざわざ家に帰って待っていたが、電話があったのは夜九時を過ぎてから。夕食後、食堂で漫画を読んでいて夢中になり遅くなったと言っていた。宮崎市内だったという。
 六日目、鹿児島の知人宅から、と電話が入った。奥さんも電話に出て、日に焼けて真っ黒だと言っていたと妻の話。四日ぶりに風呂に入ったらしい。
 七日目、夜九時を過ぎても連絡がないので妻が知人宅に電話を入れると、その夜も泊めていただいたとのこと。日中は車で桜島から佐多岬、九州最南端まで案内していただいたらしい。
 八日目、朝九時五十分、知人からの電話。今、「じゃあ出ようかなー」と言って出ていったとのこと。夜八時半ごろ本人から電話があり、今どこにいるかわからないが元気だと言ったらしい。一人だけ家にいて電話を受けたのは小学校五年生の娘である。たぶん八代のあたりだったのだろう。
 九日目は福岡県の八女市から夜八時半に電話があった。夕食の日替わり定食は肉と野菜炒めで、旅行中だと言ったら店にいた人が千円くれた、とうれしそうに話した。
 十日目、九州から「人道」というトンネルを通って山口県に着き、小郡まであと十五キロの山の中、と電話があった。今日は小郡まで走って泊まるつもりだと言って電話は切れた。
十時前、二度目の電話。「お父さん、やっちゃったよ。自動車にぶつかって今病院にいる。病院に泊まると高いと思うから外に寝て明日の朝は走って帰る」というのを、救急車で運ばれて外で寝ると言ったって無理だろうなと思いながら、わかったと電話を切った。妻に言ったとおり、十五分後に警察官からまた連絡があった。自転車も壊れていて動かないし、未成年でもあるので引き取りに来いとのこと。車を運転していた相手の人も電話に出て、ずいぶん緊張して話された。「大切な息子さんにけがをさせてしまって…」云々。
夜十一時前、妻と二人で小郡方面に向かって出発、家には中学一年と小学校五年の二人の娘が残る。自分たちで食べておけ、と言えばコロッケでも作って食べる。もちろん飯炊きから洗い物風呂、放っておいても何の心配もない。「お父さんとお母さんいいなー、旅行ができて」と言う中学一年生を妻は「誰がうれしいもんですか!」と怒って行程四百キロを交代で車を走らせ、夜明け前温泉津温泉駅前の駐車場で二時間仮眠。
八月二十一日月曜日、本来は朝から仕事が入っている日。朝九時半、宇部の病院に着く。鳥取に連れて帰るというと医者はびっくりして最後の治療にかかってから一時間、くるぶしあたりの傷の表面をきれいにして縫合、結局病院を出たのが昼過ぎ、家に着いたのは夜十時を回っていた。
長男は生まれた直後に手術で命を拾い、幼稚園児の時にも自転車で車にひかれて骨折だけでまた命を拾い、今回が三度目の命拾いである。運が良いのか悪いのかわからないが、これが彼の人生、私にどうできるものでもない。ただ、二十五年ほど昔、私が母を泣かせながら「ここでない所」に向かって走り続けた時に使ったのと同じシュラフを彼がまた使うことに、どこかしらうれしい思いがある。男というものが生まれて一年ほど経つと飼い主のところから出ていく雄猫のような役立たずである点で、彼も私と同じ世界を共有する年に成長したと感ずるからなのだろうか。
あと四百キロ、二日半で旅を完成させることができたのにと惜しむ。一週間も経ってから長男がした計算によると、彼が八日半で走った距離は千二百二十六キロ、使った旅費と生活費は十日間で一万八千六百円だった。                   (1995年) 

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