鳥取城(久松城)


鳥取市のシンボル的存在でもある久松山は昭和30年代は子ども達のチャンバラごっこの舞台ともなった遊び場でもありました。
石垣を登ったり、下ったりまた、頂上まで登る時間を争ったりと「やんちゃ坊主」達には絶好のステージです。
今は国の史跡となりそんなことは史跡保護・安全面においても許されるものではありません。
また鳥取城は揚羽蝶家紋の池田のお殿様が1602年から12代の長きにおいて城主として入府されていました。
そんな歴史ある因幡国池田藩ゆかりの地を訪れてみたいと思います。

戦国時代
戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。武田高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった武田高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し下剋上を果たした。武田高信はその後も、山名豊数の弟で、主筋である山名豊国としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる
1573年(天正元年)、武田高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ山名豊国の攻撃を受け、劣勢の武田高信は和議を結び城を明け渡すと、まもなく山名豊国により謀殺される。 因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されるが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ山名豊国は降伏、市場城主・毛利豊元が城主となる。 しかし、1574年(天正2年)再度、尼子残党に攻められ降伏する。 1575年(天正3年)芸但和睦で毛利の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き山名豊国が城主に落ち着く

羽柴秀吉対吉川経家
1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て山名豊国が負担)の末、9月山名豊国は和議により織田信長へ降伏、臣従した。
ところが、同月毛利の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。 この時点で山名豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。 牛尾は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い帰還(近年の研究では、帰還後も生存していたことが明らかになっている)、何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏重臣・吉川経家を城主に迎える。
同年4月、因幡守護・山名豊国は織田へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。 残存する山名旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉は二度目の鳥取城攻撃をすることとなる。 秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。 陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。 このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。 何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。 信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。 城主・吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。

安土桃山時代
吉川経家や山名旧臣に代わり、浅井氏旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点とした。 その後継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となった。 その後も継潤は、九州平定後五奉行として連署するなど(宮部法印 前田玄以 富田知信 増下長盛 石田三成)秀吉与力として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕えた。

関ヶ原の戦い・江戸時代
所領は継潤の子の宮部長房が受け継いだ。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に所属し、城主の長房自身は因幡の外にいたので、城代家老の伊吹三左右衛門や一族の者が留守を守った。関ヶ原での本戦終了後、東軍の亀井茲矩らに激しく攻められ開城する。
関ヶ原の戦いの功により近江甲賀郡水口から池田長吉(池田氏)が6万石で入り、彼によって近世城郭に改修された。 1617年(元和3年)、さらに池田光政が因幡 伯耆32万5,000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張された。彼によって城下町の整備も行われたという。 その後ふたたび、備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えた。  ウィキピディアより


史跡鳥取城跡第34次発掘調査 現地説明会 中ノ御門他  2015.03.14

史跡 ・地名 住所(所在地) 見どころ
天守 鳥取県鳥取市東町2丁目 池田長吉が城主となってから明治維新まで池田家が12代にわたり城主を務める
天球丸・二ノ丸・丸ノ内 他 鳥取県鳥取市東町2丁目
池田家墓所 鳥取県鳥取市国府町奥 初代鳥取藩主・池田光仲公から11代慶栄公までの歴代藩主と、昭和5年に東京牛島の弘福寺から移した藩主夫人の他、同族70数基の墓碑が立ち並ぶ
興禅寺(龍峯寺)こうぜんじ 鳥取県鳥取市栗谷町10 池田光仲の菩提寺 徳川家と池田家の家紋、三つ葉葵が残されている
芳心寺 ほうしんじ 鳥取県鳥取市馬場町6 池田光仲に嫁した芳心院(紀州初代藩主徳川頼宣の第一女茶々姫徳川家康の孫に当たる)の分骨された寺
樗谿神社(鳥取東照宮) 鳥取県鳥取市上町87 池田光仲が祖父徳川家康を祀る為に日光東照宮から分祀した神社
観音院 かんのいん 鳥取県鳥取市上町162 池田光仲が築造させた庭園がある。観音院は池田家祈願所
大雲院 鳥取県鳥取市立川町4丁目24 池田光仲が鳥取東照宮(現在の樗谿神社)の別当寺院として開いたのが始まりとされます
広徳寺 鳥取県鳥取市立川1丁目1 鳥取藩主池田家の血縁で家老だった下池田家と山池田家の菩提寺と庇護されました。境内には日本最古の力士の墓とされる「鎌倉十七(17歳で鎌倉勧進相撲で優勝し現在でいう横綱格になり池田光仲に仕えた)がある
箕浦家武家門 鳥取県鳥取市東町 元はお堀ばたの南隅にあって2千石の箕浦近江宅の門でした。昭和11年に大阪の素封家広岡松三郎氏の寄贈によって現位置に移築保存された
岡崎平内邸 おかざきへいない 鳥取県鳥取市馬場町 岡崎平内邸は天保6年(1835)に建てられたもので、11代将軍徳川家斉の娘である泰姫が鳥取藩9代藩主池田斉訓に輿入れする際、江戸藩邸の泰姫居宅の試作品として建てられた
仁風閣 鳥取県鳥取市東町2丁目121 池田仲博の時代に建てられ、後に大正天皇の宿舎として使われた
宝隆院庭園 鳥取県鳥取市東町2丁目121 池田慶徳が慶栄の未亡人宝隆院をなぐさめる為に造らせた庭園
山王宮日吉神社 鳥取県鳥取市布勢 池田藩の治下となり、山王社は徳川氏の拠る江戸の山王日枝神社(家康が坂本より勧請した山王権現で、徳川氏の氏神とした)に直結して、藩祖以来“布勢の日吉さん”と呼び習わすようになる
光専寺 鳥取県八頭郡智頭町智頭147 藩主池田光仲候の父忠雄候のお位牌が興雲寺に安置宿泊された際、供養を精励に務めたため寺領と池田藩の蝶の紋様を用いることを許された格式高い寺
興雲寺 鳥取県八頭郡智頭町智頭364 池田光仲候の父忠雄候のお位牌がこの寺に安置宿泊
石谷家住宅 鳥取県八頭郡智頭町智頭396 石谷家は屋号を「塩屋」と称した近世以来の商家で、明治以降は山林地主として栄えた
玄忠寺 鳥取県鳥取市新品治町176 池田光仲により招かれた剣豪荒木又右衛門の墓と遺品館がある
景福寺 鳥取県鳥取市新品治町135 大坂の陣で豊臣方として戦った後藤又兵衛の墓があります
摩尼寺 まにでら 鳥取県鳥取市覚寺624 池田光仲・光政によって、鳥取城の鬼門にあたる現在の山裾に再建
真教寺 鳥取県鳥取市戎町506 天正九年(1581)、羽柴秀吉の鳥取城攻略の犠牲ととなった吉川式部少輔経家は、十月二十五日真教寺で、その生涯をとじた
吉川経家墓 きっかわつねいえ 鳥取県鳥取市円護寺 吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に35歳であった。死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している
太閤ヶ平 たいこうがなる 鳥取県鳥取市 天正九年(1581)六月二十五日羽柴秀吉(当時四十六歳)は、二万余の大軍をひきいて姫路を出発し戸倉峠を越え、若桜・私都谷・三代寺・宮の下・岩倉・滝山・小西谷を通り二十九日突如として帝釈山(標高二四一米)に進出し、ここに本陣をかまえた。後にこの山を本陣山・太閤ケ平と呼んでいる
武田高信の墓 鳥取市河原町佐貫 戦国時代、鳥取城にあって因幡制覇に邁進した武将、武田高信。高信の墓と伝えられている五輪塔が大義寺の敷地内にあります
平井権八屋敷跡 鳥取市湯所町1丁目 鳥取藩主池田光仲の家臣平井正左衛門の長男であり、鳥取の剣豪の一人。父の仇討ちとして、家中の者を斬ったため、江戸に脱藩しましたが、遊行費欲しさに辻斬りを重ね、鈴ケ森で極刑になります
深尾角馬の墓 鳥取市弥生町205 甲冑(かっちゅう)を付けない素肌の剣術に改め、自分の号「井蛙」をとり、「井蛙と雖も大海を知る」の意味を含めた、雖井蛙(せいあ)流を考案した人物です。この流儀は鳥取藩の剣術の主流となり、鳥取藩のみに伝わりました。また、娘の事で百姓と争い、父子3人を切り捨てた罪で、前代未聞の切腹をした話は有名です。本浄寺の山門を通ると正面に深尾角馬の墓があります
渡辺美術館 鳥取市覚寺堤下1-55-1 鳥取市の医師渡辺元が昭和初期から60余年にわたって収集した古美術品3万余点を収蔵する美術館です。約1万5千点の展示品は、武具、刀剣、陶磁器、蒔絵、書画、古銭など、そのジャンルは多彩
賀露神社 かろ 鳥取県鳥取市賀露町北1丁目 八頭郡八頭町(旧八東町)妻鹿野(めがの)滝川地区の山林から樹齢千年を越える1本の大ケヤキが切り出され、ここから3つの太鼓が作られました。この3つの大太鼓は藩士に登城の時刻を知らせる御用太鼓として打ち鳴らされ、当時、その音は30km先まで響き渡ったと言われています。
賀露神社には口径120cm、胴回り450cm、胴長150cm
名和神社 なわ 鳥取県西伯郡大山町名和556 名和神社の大太鼓は口径140cm
美保神社 みほ 島根県松江市美保関町美保関608 美保神社の太鼓は口径130cm
大森公園 鳥取市相生町一丁目 この辺りに黒部官兵衛の陣があったと伝わる
久能寺 鳥取県八頭郡八頭町久能寺 奈良時代に久能寺周辺で始まったといわれている因久山焼は、鳥取池田藩の御用窯として愛用
天神山城 鳥取県鳥取市湖山町南 1466年(文正元年)因幡国第5代守護・山名勝豊によって二上山城より守護所が移転されたと伝わるが、勝豊は1459年(長禄3年)に没しており、山名豊氏を指すのはないかとの説が有力
防己尾城跡 つづらおじょう 鳥取県鳥取市福井 防己尾城(つづらおじょう)は因幡国高草郡(現在の鳥取県鳥取市金沢)にあった平山城。1579年(天正7年)、因幡国の有力国人・吉岡将監定勝によって築かれ、1581年(天正9年)の羽柴秀吉による因幡侵攻に伴い落城、廃城となった。なお、防己尾(つづらお)という城名は江戸時代ごろに定着したものであり、天正年間には亀山城、吉岡城と呼ばれた。
鹿野城跡 しかのじょう 鳥取県鳥取市鹿野町鹿野 1617年(元和3年)、池田光政の鳥取入府に伴い、家老・日置忠俊が城主となる。また寛永9年(1632)には新たに鳥取藩の藩主となった池田光仲の2男池田仲澄が鹿野領2万5千石(後に加増され3万石)が分知され鳥取東館新田藩を立藩します。
城山神社 鳥取県鳥取市鹿野町鹿野 祭神は須佐之男命。亀井氏在城中は城内鎮謹の神社として祀られました。社殿は精緻を極め、彫刻も見事
亀井茲矩の墓 かめいこれのり 鳥取県鳥取市鹿野町 関が原の戦いでは東軍に組し鳥取城を攻略、その功で3万8千石に加増され鹿野藩を立藩し初代藩主になっています
譲伝寺 じょうでんじ 鳥取県鳥取市鹿野町 鹿野城の城主亀井茲矩によって現在地に移され譲伝寺に改称しています。茲矩は曹洞宗に篤く帰依し自らの菩提寺とすると堂宇の造営や寺領の寄進などを行う
幸盛寺 こうせいじ 鳥取県鳥取市鹿野町 亀井茲矩は尼子氏遺臣である山中幸盛娘婿だったことから、幸盛の枯骨を高梁から移し墳墓を築くと幸盛の菩提寺としています
加知弥神社 かちみ 鳥取県鳥取市鹿野町 江戸時代に入ると歴代鳥取藩主から庇護され元和9年(1623)に池田光政が社殿を修理し、寛永10年(1633)には池田光仲が社領39石6斗9升3合を安堵しています。
若桜鬼ヶ城 鳥取県八頭郡若桜町 若桜鬼ヶ城の築城は鎌倉時代初期に梶原景時の変で功があり因幡国山田周辺が与えられた矢部氏が築いたのが始まりとされています。江戸時代に入ると山崎家治が3万石で入封しますが元和3年(1617)に山崎家治が備中成羽藩に移封となった為、廃城となっています。
若桜神社 鳥取県八頭郡若桜町 天正9年(1581)、羽柴秀吉による因幡侵攻の兵火により多くの社殿、社宝が焼失し一時荒廃しますが、その後若桜鬼ヶ城の城主となった木下備中守が社殿を再建し、山崎甲斐家治が社伝を再興しています。江戸時代に入ると鳥取藩主池田家が庇護したことで社領が安堵され度々神宝も奉納されました
若桜弁財天 鳥取県八頭郡若桜町 文治年中(1185〜89)、平家一族の小松備中守平師盛卿がこの地へ落ち延び、平家の氏神である弁財天を勧請したのが始まりと伝えられています。歴代若桜鬼ヶ城主である矢部氏、木下氏、山崎氏の祈願所として庇護され、江戸時代に入ると鳥取藩初代藩主池田光仲が篤く帰依したことで社運も隆盛します
龍徳寺 鳥取県八頭郡若桜町 慶長7年(1602)当寺五世観宗秀音和尚が鬼ヶ城主山崎家盛の帰依により、菩提寺として現在地に移し、萬祥山龍徳寺と改称した。文久元年火災にあったが、後再建され現在に至る。」とあります。創建は享禄2年(1529)、当初は曹洞宗の寺院だったとされ、天正年間(1573〜91)に高野村に移っています。境内にある五輪塔は山崎家盛の遺髪を埋めた所と伝えられています。