【投稿する】
折りたたむ
諭鶴羽山(ゆづるはさん)は兵庫県の淡路島南部をほぼ東西に連なる諭鶴羽山地の西部にある標高607.9mの山です。諭鶴羽山地の最高峰であり淡路島の最高峰でもあります。そんな山頂の南側約400mに鎮座するのが諭鶴羽神社です。またフィギュアスケートの羽生結弦選手が訪れたことでも有名です。しかし参道は大変な悪路というか道幅も狭く対向車がないことを祈りながらの参拝です。
創建は開化天皇の治世と伝えられる古社です。自然崇拝に始まったとみられる諭鶴羽参りは平安時代になると修験道の一大道場として隆盛を誇り、長寛元年(1163年)に書かれた『長寛勘文』の「熊野権現御垂迹縁起伝」によると、熊野神は英彦山から石鎚山、諭鶴羽山を経て熊野新宮・神蔵の峯へ渡られたとされている。一帯に28宇の伽藍が建ち並び、熊野権現元宮・熊野本宮と称えられて京の都にまでその名が聞こえた。『枕草子』にも「峰は ゆずるはの峰 あみだの峰 いや高の峰」とあります。
奥宮 康正2年(1456年)に戦乱で全山が焼失。天文年間に美作藩主の助力で18宇を再建したが、天文18年(1549年)6月9日に石川紀伊守の乱で再び焼失。再興の望みがないため資料を後世へ伝えるべく天文21年、美作の乗蔵らが各社堂・神仏を碑石に刻んで残した。これらの碑石が奥宮・十二所神社に安置されている
三角点のある山頂は諭鶴羽神社の御旅所で、毎年4月第2土曜日に行われる春の例大祭には神輿が上がるとのこと。
勾玉のような島「沼島」を望む。この島にイザナギ・イザナミの二神が降り立って、夫婦の契りを結び、御柱と宮殿を建て、国土造成を されました。その舞台であるオノコロ島が、沼島となされています。
兵庫県 淡路市多賀に鎮座している式内社(名神大社)、淡路国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
『日本書紀』・『古事記』には、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)に鎮まったとあり、当社の起源とされる。
幣殿中門
拝殿
本殿
八王子神社は洲本城の鎮守の神社で標高133メートルの三熊山の頂上に鎮座しています。
参道には十二支が祀ってあります。神々しいより霊気を感じます。
大永6年(1526)に安宅隠岐守治興が洲本城を築城のときに勧請した神社で蛇の神を祀っているとされる
巨石を背中に小さな祠がある。昔は藤山寛美が寄進した芸の神様が祭られていたようであるが、今は石造りの真新しい祠が建っている。そばに芝右エ門神社(シバエモンジンジャ)という文字が書かれた板があったので、この祠のことであろうか。芝右エ門とは三熊山の頂上に住む化け狸のことである。
自凝島神社(おのころじまじんじゃ)は、兵庫県 南あわじ市(旧三原町)に鎮座している神社です。おのころ島神社とも表記されています。高さ21.7メートルの大きな鳥居が有名でこの鳥居は平安神宮及び厳島神社と並び「日本三大鳥居」の一つに数えられています。
伊弉諾命(イザナギのミコト)・伊弉冉命(イザナミのミコト)を主祭神として菊理媛命(キクリヒメのミコト)を合祀する。当社が鎮座する丘が両神による国産み・神産みの舞台となった自凝島であると伝えられている。
本殿 おのころ島神社の屋根は、かつては、葦原国にちなんで葦(あし)で葺いてありました。現在は、銅板で葺いてあるが、その下は葦で葺かれており、また、千木(ちぎ)は上端が水平であり、鰹木(かつおぎ)は8本となっています。
大鳥居を別角度でどうぞ!
古事記、日本書紀によると、天(あめ)と地(つち)がひらけるはじめは、国土が浮き漂い遊魚が水の上に浮かぶようであった。その中から葦芽(あしかび)のようなものが生じて神となり、国常立尊(くにのとこたちのみこと)ともうしました。その地と言われている場所がおのころ島神社から500mほど行った田んぼの中にあります。
かつてこの葦原国のまわりには、葦が茂っていたといわれています。「千速(ちはや)振る神代の昔あしはらを ひらきそめにし国常跡」の歌碑が建てられています。
おのころ島神社から400mほど行った所にありました。古事記・日本書紀によれば、国生みの神話のなかで、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が 「天の浮橋」に立って、 天の沼矛を持って海原をかき回すことにより、その矛より滴る潮が固まって島となった。これが「オノゴロ島」であると言われています。「オノゴロ島」の候補地は島内各地にあって、自凝島(おのころじま)神社を中心とした場所もその一つだそうです。
淡路島の中央に位置している五色町に鎮座している式内社です。
古昔より天神と称し最も高き貴き天津神といわれまた、高オカミの神とも伝えられ地方に恵みをもたらす万物育成の神・水を司る(甘雨を降らし霖雨を止める)神として崇められています。
本社河上神社は創立年代不詳であるが延喜式神名帳に『淡路国津名郡河上神社』とあり古くは国幣にあずかり崇拝されてきた神社です。また贈正一位太政大臣菅原道真朝臣をお祀りしてあり天満天神と称され知徳を進める学問の神として広く崇敬されています。
淡路島の最北端に位置する岩屋に鎮座している神社です。正面に恵比寿神社があり裏側に岩楠神社が鎮座しています。岩樟神社の祭神はイザナギ、イザナミ、そしてこの二神より生まれた蛭子(ひるこ)の三柱です。蛭子(事代主命(ことしろぬしのみこと))は一般には「えべっさん」の名で親しまれ商売繁盛の神であり、「西宮のエビスさん」の本家は岩屋であるという説があります
岩楠神社の背後に高さ十数メートルの岩壁があり、そこに岩楠神社が祭られています。この洞窟は、昔52mの奥行があったのですが、現在では高さ1m60cm 幅1m10cm 奥行3mとなり前面の左右に上古の祭壇の跡があります。昔の風習から、現在でも古びた祭器や神体を納受けする場所になっています。
またこの洞窟はイザナギの幽宮であるともいわれています
神社前を偶然にも通りかかって通り過ぎてからまい戻ってきました。御香宮神社は京都府 京都市伏見区御香宮門前町に鎮座しています。式内社で、旧社格は府社です。
初めは「御諸神社」と称していた。創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録があり、伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。
豊臣秀吉は、伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神とした(現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定されている)。
明治元年(1868年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは伏見町内における官軍(薩摩藩)の本営となったが、本殿等は無事であった。
後に徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営された。表門は伏見城の大手門を移築したものとされている。
京都府 京都市伏見区深草鳥居崎町609に鎮座。3500株のあじさい苑がある神社ということで訪れました。旧社格は府社ということで拝殿等も立派なものです。
拝殿 本殿(中座)に主祭神である素盞嗚命と、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇を祀り、東殿(東座)に天武天皇と崇道尽敬皇帝(舎人親王)を、西殿(西座)に崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王を祀る。
社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、現在本殿に祀られる7座であった。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地である。その地に稲荷神が祀られることになったため、当社は現在地に遷座した。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現・城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。
紫陽花苑 第一紫陽花苑と第二紫陽花苑があります。
京都府 京都市伏見区中島鳥羽離宮町7に鎮座している神社です。式内社で、旧社格は府社。「方除の大社」として知られている。
創立年代は不詳であるが、この地にあった式内社「真幡寸神社」に、神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てた旗に神功皇后・八千戈神(大国主神)の神霊を添えて奉斎したのに始まると伝えられている。平安遷都の際に国常立尊が併祀され、城(平安京)の南にあることから「城南神」と呼ばれた。白河天皇が鳥羽離宮(城南離宮)を造営してからはその一部となり、代々の天皇や上皇の行幸がしばしばあった。また後代になると京都御所の裏鬼門を守る神となったことから貴族の方違の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されるようになった。
応仁の乱などの戦乱で荒廃したが、江戸時代になって復興された。幕末の文久3年(1863年)には孝明天皇の攘夷祈願の行幸があった。しかし新政府軍の掲げる錦の御旗の前に旧幕府軍が総崩れとなった慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの主戦場となったものこの地です。
本殿 ここ城南宮は、毎年春と秋に平安の庭で催される「曲水の宴」でも知られています。「曲水の宴」は、庭を流れる川のほとりで和歌を詠むという、王朝時代を偲ばせる雅やかな行事です
須我神社は島根県 雲南市大東町須賀260に鎮座しています。旧社格は県社です。
昨年度に何回か島根県を訪れ八岐大蛇伝説地を回る旅をしましたが、須我神社だけいつもタイムオーバーとなり、しかたなく次回に残していた神社です。それだけに感無量の喜びです。
古事記によると、肥河上(現斐伊川)でヤマタノオロチを退治したスサノヲノミコトは、自分の住居となる宮を求めてこの出雲国須賀にやってきました。その際「吾此地に来まして、我が心須賀須賀し」 と言い、この地は須我といわれるようになりました。そして宮殿が出来上がった時に、美しい雲が立ち上がるのを見て「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣つくる その八重垣を」 と御歌を詠みました。
三十一文字和歌発祥の地、さらにはこの御歌の出雲が出雲の国名の起源でもあります。古事記、日本書紀に書かれる日本初之宮がここ、須我神社です。
神社の後方、須我山(御室山、八雲山)の山懐に大きな夫婦岩があります。
そこは須我神社奥宮(磐座=いわくら)として祭祀信仰されています。ここで心身を清めていきましょう!
最後の階段です。気合いを入れて上がります。
2つの岩が寄り添うように並んでいるその傍らにもう一つ小さな岩があり、大きなものからスサノヲノミコト、櫛名田比売命(クシナダヒメ)、二神の子である清之湯山主三名狭漏彦八島野命(スガノユヤマヌシミナサロヒコヤマノミコト)であると言われています
?削除方法
閉じる
不適切動画の報告