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閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県 備前市 閑谷。「旧閑谷学校」として特別史跡に指定され、講堂は国宝に指定されている。その校内にある神社が閑谷神社です。
学校創設者池田光政公を祀るために貞享3年(1686)に建てられました。西側に並ぶ聖廟に対して、東御堂ともいいます。
内部は金閑谷神社色に輝く光政像が安置されています。建物は聖廟に比べて一まわり小さく、1m低く建てられています。
本殿
岡山県 備前市吉永町福満に鎮座している小さな神社です。備前市のパンフレットで見つけて立ち寄ってみました。駐車場は県道にあり、山陰本線の踏切を歩いて渡ることになります。
どこにでもある普通の神社です。
牛神社ですので、きっと牛が祀ってあるのでしょうけど。備前焼の牛の周りには小さな子牛がびっしりと置かれています。
空に向かって歩くような急な階段です。ひたすら登ります。
わ---これはいったい。社殿はありません。御神体の牛が安置された神座がありますが。その周りにはおびただしい数の備前焼で作られた牛の数です。
田倉牛神社の祭神は牛頭天王であり、元々は牛馬の健康を祈るための神社です。また面白い習慣もあり参拝に来た方は、鳥居の近くにあるお店で小さな牛を購入し、それを持って御神体の牛がある場所まで行き、そのまま奉納します。その時に何かを感じる一匹を持ち帰ります。そして願いがかなうまで大切に保管しておきます。願いがかなったらその牛を返しに行くわけですが、その時にお礼としてもう一匹を新たに奉納します。まあ願いがかなうと、どんどん増えるわけです。
今やその数は20万とも30万とも言われています。ちなみに備前焼の牛は一匹1000円で販売されていました。
備前焼は岡山県 備前市にある伊部の町で発展しました。この町に、備前焼に関わる神社が鎮座しています。それが天津神社です。
境内は備前焼であふれています。神社の入り口では、備前焼の狛犬が出迎えてくれます。
なんと参道を進むと「参道のタイル」や「神門」「屋根瓦」「壁の刻印」に至るまで、すべて備前焼で作られています。
いろいろと紹介してみましょう
本文なし
拝殿
鳥取県 境港市にある水木しげるロード。ロード沿いに妖怪神社が鎮座している。この神社は妖怪ブロンズ像の故郷として、また妖怪達が住みやすい自然環境を守り育てるための「妖怪の郷」の意を込めて造られたようです。
目玉おやじの手水舎 御影石で作られ、高さ1.9m。茶わん風呂に入っている目玉おやじをイメージし、茶わんの中に目玉を描いた球体(直径38cm、約70kg)が浮かんでいます。
御神体は、高さ3mと2.5mの黒御影石と樹齢300年の欅(けやき)を組み合わせ、また鳥居は一反木綿をデザインされ作られています。
大山祇神社は、愛媛県 今治市大三島町宮浦にある神社。式内社、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社
2010年に新築された総門。総ヒノキ造りで高さは12m
雨乞いの楠 樹齢3000年 日本一古いクスノキということです
平知命御手植の楠 幹周/11m、樹高/15.6m、樹齢/約2600年
生樹の御門 奥の院へ向かう参道にあります。樹齢3000年の老楠、根回り31メートルに及ぶ
奥の院
広島県 尾道に鎮座している神社です。平安時代初期の大同元年(806年)の創建と伝えられる古社です。
艮神社の正面の鳥居は千光寺ロープウェイ山麓駅の横にあり、ロープウェイとほぼ平行に拝殿への参道が伸びているため、どこにいてもロープウェイが頭上を通ります
拝殿。右側には大クスが見えています。
幹周/7.5m、樹高/25m、樹齢/推定900年の大クスです
広島県 福山市新市町宮内にある神社。備後国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社
下随神門
上随神門
拝殿 本殿とともに慶安元年(1648年)の造営。本殿の下段に建てられている。福山市指定文化財に指定されている
本殿(国指定重要文化財) 慶安元(1648)年初代福山藩主水野勝成公により御造営されました。
広島県 福山市新市町大字戸手にある神社。式内社で、備後国一宮です。
社伝によれば、天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)に創建したとされる。その後、遣唐使の吉備真備が唐から帰国した後の天平6年 (734年)に播磨の廣峯神社に勧請したとされる
本殿 入母屋造檜皮葺。備後福山藩の初代藩主水野勝成の再建と伝わる
城門前にいる活気に満ちた狛犬です。これだけ動きのある狛犬は全国的にも珍しいとのことです 備後鞆町石工・右下政治郎 昭和2年(1927)7月に奉納されています
この神社は祭神として天武天皇を祀り、壬申の乱直後に創建されました。
若宮八幡神社で書いたように672年の壬申の乱は、関ケ原の藤古川を挟んで、川の東西に分かれて行われたといわれています。川の東側の村人が、大海人皇子(後の天武天皇)に、川の西側は大友皇子側について戦ったそうです。ここは東側なのです。
天武天皇元年(672年)の壬申の乱では、この関ヶ原の藤古川を挟んで、東西に分かれて戦いが行われたと伝えられる。そして、川の東側の村人が、大海人皇子(後の天武天皇)に、川の西側は大友皇子側について戦ったとされ、この社は、その西側の大友皇子を祀っている
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