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神々の国、出雲。この地の象徴であるかのようにそそりたつ出雲大社。高さ23m(今の出雲大社の本殿の高さは24m)、中央の額が6帖の大きさの大鳥居。早朝に撮影
縁結びの神・福の神として名高い『出雲大社』は、日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていました。
主祭神は大国様として馴染みの深い『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』で、「古事記」に記される国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりといわれています。
拝殿の後ろにある門です。一般参拝の人はここまでとなります。
大国主大神が祀られている本殿は延享の造営(1744)で建立されたもので、大社造で国宝に指定されています。神社建築の中では日本一を誇り、高さは約24m、厚い桧皮葺きの屋根の棟の上には長さ7.9mの二組の千木が交差しています。
千木の上方にあいている小さな穴は、実際は大人一人がくぐり抜けられるほどの大きさで、本殿の大きさを実感できます。
本殿に祀られる御神体は西向きで稲佐の浜の方角を向いておられ、本殿の正面から参拝すると、神様の横顔を拝んでいる事になります。
国譲り、国引きの神話で知られる浜です。浜辺の奥に大国主大神と武甕槌神が国譲りの交渉をしたという屏風岩があり、海岸の南には、国引きのとき、島を結ぶ綱になったという長浜海岸(薗の長浜)が続いています。
この浜は、旧暦10月の神在月に、全国の八百万の神々をお迎えする浜でもあります。
物部神社は石見国一宮で古来より文武両道の神・鎮魂の神・勝運の神として崇敬されてきました。
神武天皇に忠誠を尽くされたため、天皇から神剣「フツノミタマノツルギ」を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、天皇のために国の発展と天皇の延命・長寿・子孫繁栄を祈願されました。
本殿
松江の北 鹿島町恵曇に鎮座している恵曇神社は、恵曇海邊社(えともうみべのやしろ)として出雲国風土記に記載されている神社です。港の神社です。
拝殿 祭神:磐坂日子命、彦火火出見命、豊玉姫命、玉依姫命
立派な彫刻が見られます
島根半島の鹿島町南講武を東西に通る264号線・多久神社前バス停前に鎮座している。
嘉永7年生まれの狛犬です。大きな破損もなく元気な姿を見せてくれています。
見事な彫刻がある拝殿です。
神在月に全国各地から集まった神々が訪れる格式の高い古社で、神在月の神事も行われます。「出雲国風土記」にも登場し、佐太御子社と記されています。
本殿は三殿並立という珍しい大社造で、国の重要文化財に指定されています。しかし現在は修復工事中でした。残念
左側よりパチリ
大社造りの本殿 迫力を感じます。
『出雲国風土記』で阿太加夜社と記載される神社。阿太加夜奴志多岐喜比売命(アダカヤヌシタキギヒメノミコト)などを祭神とする。祭りでは日本三大船神事の一つ「ホーランエンヤ」が有名で、船に城山稲荷神社の御神霊を載せて川を上り阿太加夜社に迎える「渡御祭」、祭事の「中日祭」、お還りの「還御祭」がみどころ。
巨樹に龍とフクロウの注連縄が付いている。
こんな伝説が残る地です。伊邪那岐命(イザナギノミコト)は死んでしまったイザナミノミコトに会いたくて、黄泉の国に行くが、変わり果てた姿におののき走って逃げ帰ります。追っ手が来る中やっとの思いで脱出し、ちびきの岩で封印をします。その場所が「黄泉比良坂」です。「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」ともいわれ、現在の東出雲町の揖屋に揖夜神社(いやじんじゃ)があり、このあたりを指したと言われています。
拝殿です。注連縄が素晴らしい。
本殿 見ごたえのあるすばらしい大社造りです。
平濱八幡宮は京都の石清水八幡宮の別宮であり、出雲國における最古の八幡社でもある。同敷地内に二社鎮座する珍しい神社でもあり、正面が平濱八幡宮、左が武内神社となる。
戦国時代には亀井氏、尼子氏、毛利氏によって社殿が造営された。江戸時代には松江藩主が直轄していた。昭和17年(1942年)に県社に列格した。
武内宿禰を祭神とし、「武内さん」の愛称で呼ばれ、武内宿禰が長命であったことから延命長寿の神として信仰を集めている。立派な彫刻をご覧あれ。
両神社の本殿を望む。
創建は不詳。延喜式に記載される古社。中世近世期には「伊弉諾社」と称されていたが、明治期に「真名井神社」に社号を復し村社列格 松江市山代町に鎮座している。
大社造り・檜皮葺きが見事だ。
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