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石清水八幡宮は京都府 八幡市に鎮座。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の一社で、伊勢神宮とともに二所宗廟の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一社でもあり、また宮中の四方拝で遥拝される一社です。
祭神 八幡大神(誉田別命、比淘蜷_、息長帯姫命の総称)貞観元年(859年)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が社殿を造営したのが創建とされる。「石清水」の社名は、男山に既に鎮座していた石清水山寺(現・摂社石清水社)によるといわれる。
摂社の若宮社には、御祭神の八幡大神(応神天皇)の皇子である仁徳天皇、若宮殿社には、八幡大神の皇女が祀られています。
頓宮殿 年に一度、勅祭石清水祭において山上の御本殿より御神霊が御遷しされる頓宮殿は重儀が斎行される重要な社殿です。 幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失ののち、男山四十八坊の一つ「岩本坊」の神殿を移築し、仮宮としていましたが、現在の社殿は大正4年に造営されたもので、平成22年から同23年にかけて修復工事が行われ、昭和24年以来、実に62年ぶりの屋根の葺き替えとなり、桧皮葺であった屋根から、より耐久性のある銅板葺に葺き替えられました。
島根県 安来市 西松井町に鎮座祭神 猿田彦命 天鈿女命
式内社・佐爲神社の論社の一つで、出雲国風土記にある「狭井社」であると言われている
弁慶の腰掛岩 弁慶の母弁吉は、紀州 田那部(和歌山県 田辺市)の郷士である誕象という男が熊野権現に祈って授けてもらった娘だったが、二十歳になっても結婚相手に恵まれなかった。そのことを悲しんだ両親は、出雲の国の結びの神(安来市 西松井町)の出雲路幸神社に祈って良縁を得させようと考え、弁吉を出雲国へ旅出させた(熊野権現のお告げとする説あり)。出雲路幸神社に到着した弁吉は七日七夜参詣を続け、夢で枕木山の長海村で七年間住むことで願いはかなうとのお告げを得る。弁吉はお告げに従い長海村に住み着き、三年経た頃山伏が来訪、山伏は出雲の神の縁結びにより弁吉の夫となる事に決まったと告げ立ち去った。この後弁吉は身篭り、つわりのため鍬を食べる。村人の鍬を盗んで食べ続け、十本目の時村の子供に見つかってしまい、半分程食べ残してしまった。或いは、10本目の半分を食べた所で、弁慶が出てきたと解釈することもできる。その後、1151年 (仁平元年)3月3日に、弁慶が誕生した。弁慶の父については、『懐橘談』上(続々群書類従第9所収)の「枕木」の項目では熊野大社の別当弁斎となっているが、「天狗」や「山伏」の説が大半である。
本殿
島根県 安来市 飯生町に鎮座。祭神 大國魂命
出雲国風土記記載の神社です。本来は稲荷信仰に基づいた稲荷中心の神社であったようです
拝殿
島根県 安来市 能義町に鎮座。祭神 天穂日命
出雲大社の杵築大神、熊野大社の熊野大神、佐太神社の佐太大神と並んで能義神社の能義大神で四大大神と呼ばれています
本殿 天穂日命は能義神社の祭神で天照大神の第二子です、出雲大社千家・北島両家の先祖とされ、10月19日の例祭には、今も出雲大社の千家宮司が参拝されます。
富田八幡宮参道入り口に鎮座しています
島根県 安来市 広瀬町広瀬目谷に鎮座。祭神 素盞嗚尊 岐戸大神
創祀年代は不詳で、式内社・都辨志呂神社に比定される古社
島根県 安来市 広瀬町広瀬に鎮座祭神 誉田別尊(応仁天皇)
保元平治の頃(1156〜1159)、平家の武将・平景清が富田城築城にあたり月山山頂にあった「勝日神社」を、現在の八幡山中腹に奉遷した際「富田八幡宮」と呼ぶようになったといわれています
立派な楼門です
この辺りの神社の彫刻はみな見事です。
拝殿内 天井にも竜の絵が描かれています
島根県 安来市 広瀬町上山佐に鎮座祭神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 速玉男命 事解男命
式内社・山狹神社は、出雲国風土記に「夜麻佐社」とある神社です
拝殿 立派な彫刻が掘られています
これだ!!
島根県 仁多郡 奥出雲町大呂に鎮座。祭神 五十猛命 素盞嗚尊
日本書記によると、スサノオノミコトは、子供であるイソタケルノミコトを連れて、新羅から「鳥上峯(船通山)」に降り立ちました。この時、スサノオノミコトが乗って来た埴土船が岩化したと伝えられる巨石の「岩船大明神」が鬼神神社の鳥居右手に祀られています
島根県 仁多郡 奥出雲町横田に鎮座。祭神:五十猛命
出雲の国風土記(733年)に「伊我多氣神社」として登場し神祗官社(中央の神祗官の神名帳に登録された社)として記載されているもので、当時は神祗令によって定められた祭祀を行う延喜式内社であった
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